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【 2019年2月3日 礼拝メッセージ全文 】
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Tamano Covenant Christ Church
◆説教題「行くにも帰るにも守られる」

 聖書箇所:詩篇121:1〜8

【序】
 きょうは教会総会の日で、きょうから今年の主題聖句を礼拝堂に張り出しています。

「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121篇8節)

 きょうはこのみことばをご一緒に見ていきましょう。

 この詩篇121篇は「都上りの歌」という表題が付いています。イスラエルの人々が、地方の町や村からエルサレムに向かって旅をする時に歌われたものです。

ルカの福音書の中に、イエス様が十二歳になられた時のことが記録されています。イエス様は両親とともにエルサレムに行かれましたが、この時、イエス様はご自分の家族だけではなく、近所の人たちと(あるいは村の人たちと)連れ立ってエルサレムに行かれたこと、そして帰って来られたことが記されています。

 人々は連れ立って出かけ、語り合いながら、そして主を賛美しながら、何日かかけて神殿(聖所)のあるエルサレムへ行きました。そのような時に歌われた歌、それが「都上りの歌」です。

 今年の主題聖句は8節ですが、121篇全体の中の8節なので、そのことを踏まえながら見ていきたいと思います。

【本論】
1.1節、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

 一生に一度はエルサレムに行ってみたい。そこにある神の家で(幕屋で、神殿で)主に礼拝をおささげしたい。イスラエルの信仰深い人々は、そのような願いを持っていました。ただ、今日のように交通機関も発達していなければ、旅の安全も保障されない時代です。強盗や山賊がそのような巡礼者を食い物にしていました。このような現実の危険があったので、旅をするということ事態が非常に危険で困難なことでした。

 この詩篇は、そのような都上りの時に歌った歌です。ただこの歌は、エルサレムに巡礼する時だけに歌われたものではなく、当時の信仰者たちの日々の生活の中でも愛され、親しまれた歌でもあろうと思います。困難や危険は何もエルサレムへ行く時だけにあるものではないからです。

 今日の信仰者(クリスチャン)も同様です。私たちは天の都エルサレムを目指しながら日々の歩みをしています。やがて天において主にまみえ、栄光の主を拝していく、その日その時が来ることを覚えつつ歩んでいます。
 そのような歩みの中で、困難は日々の生活の中にあり、信仰の戦いも日々の生活の中にあります。

ですからこの詩篇は、今日のクリスチャンも同じようにして口ずさみ、歌い、この歌に込められている信仰告白を共有することができます。そして事実、今日の私たちも、この詩篇121篇を覚え、暗唱し、日々の生活の困難に向かっていきます。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

 信仰者たちは次のように告白します。
 「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

 事実、実際、クリスチャンたちは天地を造られた主からの助けをいただきながら歩んできました。何という困難、何という迫害をクリスチャンたちはくぐり抜けて来たことでしょうか。これは過去の歴史のことだけではなく、現在進行形でそうです。

 エジプトのクリスチャンたち21人がIS(イスラム国)の戦闘員に捕らえられて、リビアの海岸で殺されていきました。何百年も前のことではなく、まだ記憶に新しい四年前のことです。殉教していった彼らの子どもたちは、自分の父が信仰を捨てることを拒否して、命をささげていったその勇気と信仰を誇りに思う、そう語っています。ある遺族の家族は、夫や父を殺したISの人を赦しますと、そう言っています。イエス様のことばに従いたいからだと言っています。

 アメリカの黒人教会で起こった銃乱射事件で九人の方々が亡くなりました。犯人は21歳の白人男性です。家族はこう言っています。「彼は私たちを傷つけたけれども、赦します。」

 メディアではほとんど触れられていませんが、毎月千人以上の人々が教会や家を破壊されるなどして、信仰のゆえに命を奪われたり、危害を加えられています。

これが世界の現状です。世界のクリスチャンたちはこういうところで戦っています。天地を造られた主からの助けが本当に必要です。私たちはどういうところで戦っているでしょうか。

 さて、聖書に戻りましょう。

1節の「山に向かって目を上げる」というのは、困難や危険が予想される中で、助けを求めて高い所に目を向けている姿があるように思います。自分よりも偉大で、大きく、力強い助けが来ることを願う、期待する、その気持ちを表しているように思います。

あるいはまた、「山」というのは、これから向かって行こうとする困難や危険を指しているのかもしれません。エルサレムまで「野を越え、山を越え」進んで行かなければならない、その困難さを表す「山」です。

この困難な「山」にいま向かって行こうとしている、この「山」に向かって歩みを進めて行かざるを得ない、時には命がけで・・・、そういう時(時期・時代)というのがあろうと思います。
 どちらにしても、この困難と危機を自分は乗り越えていくことができるだろうか。果たして、私の助けはどこから来るのだろうか。

 「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

 これが信仰から来る答えです。私たちに与えられた信仰が導き出していく答えであり、私たちの信仰を通して神が語りかけておられる答えです。

 ことばを代えて言うなら、こういうことになるでしょう。「主であるわたしの助けは、山よりも大きく、山よりも高い。」
 私たちは「山」を20度、30度の角度をもって見上げ、その困難を思ってひるむかもしれません。しかし、私の助けは、その困難のはるか上から来る。私の助けは、垂直、真上から来る天からの助けである。

これが、ここで語られている告白です。 

 このように、信仰は「天地を造られた主」を見ます。信仰は「天地を造られた主」を仰ぎ、信仰は、「天地を造られた主」を信頼します。

 これが信仰です。

信仰者は困難があるのを知っています。クリスチャンは、「困難なんかあったっけ・・・」みたいな、能天気な人間ではありません。しかし困難はあっても、見つめているのは「天地を造られた主」です。

ただしかし、サタンや悪霊が見せていくのはいつも困難の「山」だけです。

そして、サタンの教える助けは、偶像の神であり、迷信であり、占いであり、鼻から息をする人間です。

また、サタンが教える助けは、自分自身です。もっと頑張れ、もっと成功しろ、もっと上り詰めろです。そうしたらうまくいく、そうしたら幸せになれる、そうしたら満足を得られる・・・。

それがうまくいかなかったら(うまくいくはずがないんですが)、今度サタンが教える助けは、人のせいにすることです。「自分がこうなったのは、あの人が悪いからだ、この人のせいだ・・・。」そういう思いで一杯にさせていきます。

 パウロは言っています。「私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(Uコリント2:11) 

 みなさんは、このサタンの策略をご存知でしたか。そしていかがでしょうか。みなさんは、このサタンの策略に乗せられていませんか。 

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

ですから信仰者はここに帰りましょう。サタンの策略、その罠にはまり込んでいることに気づいたならば、今すぐにここに帰りましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

人を見るのではなく、自分自身を見るのでもなく、他の人のせいにするのでもありません。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

何度でもここに帰りましょう。

そして私たちクリスチャンが忘れてはならないことは、「私の助けは、天地を造られた主から来る」というだけではなく、「私の助けは、天地を造られた主から来た」ということです。

このように言ったら、もうお分かりだろうと思います。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」この約束とこの確信が、イエス様によって「私の助けは、天地を造られた主から来た」という喜びと感謝の確信に変わったのです(変わっているのです)。

天地を造られた主が、助け主としておいでになられました。天地を造られた主が贖い主としておいでになられました。天地を造られた主が救い主としておいでになられたのです。

キリストはおいでになられました。私たちを助けるために。そして私たちを救うためにです。

 もう一度言います。信仰者はここに帰りましょう。サタンの策略、その罠にはまり込んでいることに気づいたならば、今すぐにここに帰りましょう。「私の助けは、天地を造られた主から来る。」そして事実、主ご自身が来てくださったのです。

 パウロはこの事実を知って、確信してこう述べています。私たちもこれを自分の確信とさせていただきましょう。ローマ8:32です。

 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が(私たちを助け、救うためにです)、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

 天から助けの御手を差し伸べてくださるだけではなく、私たちのために御子をさえ惜しまれなかった神です。必要な助けは必ず与えられるのです。

2.この自問自答のような1節2節を受けるようにして、後の3節以降があります。

 そして忘れないうちに最初に申し上げますが、今説明させていただいた2節の助けと守りが8節につながっていきます。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

 「(その)主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 さて3節以降ですが、ここは主ご自身が語りかけているように思います。3節以降を見ると、実に六回、同じことばが繰り返し語られます。「守る」ということばがそうです。

 主はあなたを「守る」、主はあなたを「守る」、主はあなたを「守る」、「守る」「守る」です。これが3〜7節まで続きます。そして最後にもう一度、8節です。

 「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 きょうは3〜8節の一節一節を見てはいきませんが、一つ注目したいのは5節です。

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。」

 「主は、あなたの右の手をおおう陰」とありますが、この「右の手をおおう陰」とは、その人の右側に誰かが立つ時に生じます。すなわち5節は、あなたを守られる主が、あなたの右の傍らに立たれるということです。

右手というのは一般に利き手を表します。また同様に、右というのは優位を表わします。例えば、あの人は私の「右腕」ですと言ったら、それは、最も信頼できる人だという意味です。「あの人の右に出る者がない」と言ったら、その人より優れた人がいないことを意味します。

主は、あなたの右の傍らに立たれます。これはどういうことでしょうか。主が、あなたの右に立たれるのであって、他の人や他のものではない。すなわち別な何者かがあなたの右に立ち、あなたより優位な立場に立ってあなたに命じ、あなたを奴隷のように引きずり回すことはない。そういうことにはさせない、ということになります。

あなたを守り、あなたを導いて行くのは、あなたのためにいのちを捨てたこのわたし主であって、他のものではない・・・。

主はそのようにして私たちの右に立たれ、私たちを守られます。ですから、みなさんの右にはイエス様以外のものを立たせないようにしてください。心の中において、信仰においてです。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

先ほども申し上げた通り、この主とは、天から降って来られたキリストです。イエス様こそが天地を造られた主であり、私(みなさん)の右の手をおおう陰です。

この主が7節、8節に続いていきます。

 「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 「行くにも帰るにも」守られる「あなたのいのち」ですが、このいのちは永遠のいのちを指して語られています。なぜかというと、守られるあなたのいのちは「行くにも帰るにも」という地上にいる間だけのことではなく、「今よりとこしえまでも」という永遠まで守られるいのちだからです。

 肉体のいのちはこの地上の間だけです。神が与えてくださった永遠のいのちは文字通り永遠です。

 この永遠のいのちが守られることに関しては、イエス様がその保証です。イエス様が責任をもって私たちを永遠に至らせてくださいます。

 問題は「行くにも帰るにも」というこの地上の期間です。私たちが取り組まなければならないところです。

 しかし、ここでも同じように主の守りがあります。どのような主の守りがあるのか・・・。3節〜7節がそうです。

「121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 121:5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
 121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 121:7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」

 もう一度思い起こしましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」
 「(その)主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られ」ます。

ですから、この年も、信仰者として信仰の歩みをさせていただきましょう。

私の助けはどこから来るのだろうか…。そのように心細く感じる時があるかもしれません。その時思い起こしましょう。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

「主は、私を、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

これが今年度の主題聖句です。主が私たちを、そしてみなさんを守ってくださいます。

教会学校の子どもたちの大好きな賛美に「よろこびひろげよう」という賛美があります。

  「よろこび ひろげよう ちいさな僕たちだけど

  イエス様は どんなときでも あいして 守ってくださる」


 ワーシップソングの歌集には、イザヤ書41:10の歌詞の曲もあります。「恐れるな」です。

  「おそれるな わたしは あなたとともにいる

  たじろぐな わたしは あなたの神だから

  わたしはあなたを強め あなたを助け

  わたしの義の右手で あなたを守る」

【結】
 この主を見上げて、この新しい年も歩んで行きましょう。

「主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」


               (2019年2月3日 礼拝説教より)


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